「リゾート社長のこだわりブログ」の記事一覧

ずらりと並んだコンクールデレガンス参加車両
テーマは「Spirits OF Motorcycles Over 50years Ago」
最も古いのが1954年”みずほ自動車ナイトリーキャブトンRBH”と1954年”陸王RQ”
最新でも1974年”ホンダCB500T”まで25台がエントリー

初代理事長である(故)中沖 満氏の最後の愛車Moto Guzzi Le Mans Ⅲ
生前のお元気な姿が思い出されます
お馴染みのガレージセールも楽しみの一つ


メグロ愛が強く感じられるTシャツ

思わず”写真を撮らせてください”と頼んだ一枚

驚いたことに”Steve McQueen MotorCycle Club”のメンバーとの事
複数のメンバーで参加していると聞き、早速入会することに..
1954年モデル 伊藤機関工業IMC-K
戦後、愛知県~静岡県には何十ものバイクメーカーが存在していたのだそうな..

1958年 東京発動機(トーハツ)PKD58

レトロな衣装も重要なアイテム
この満面の笑顔..御年83歳
見ている方まで幸せになります

1964年 KAWASAKI J1-R
そして私です..

キックをミスり、少しかぶらせてしまいました
緊張気味にゆっくり走行

この後はお昼ご飯

峠の釜めしを頬張りながら、バイク談議が尽きない人々

ここで浅間ミーティングクラブの趣旨書をクラブHPから引用します
わが国の二輪車の歴史を語る時に、「浅間」を語らないわけにはいきません。それは1955年から1959年にかけて、国産車の性能向上を図るレースがこの地で行われたからです。1950年代初頭の国産車は窮乏のなかで庶民の生活に欠かせない輸送手段として使われていました。つまりトラックの代わりとして酷使されていたのです。メーカーも150社以上が乱立、作れば売れることから品質劣悪といったものが多く見られました。性能は、外国車に比べると著しく劣っていたために外国車の進出が目立ち、せっかく緒についた国産車生産に危機感が生じました。有名なイギリスのマン島TTレースのようなレースを行うことで、国産車の弱点と欠陥を洗い出し、耐久性向上をはじめレースによって品質向上を目指すという方法がとられました。
第一回のレースは1955年11月に北軽井沢をスタートし、国道146号線などの公道を閉鎖して行われこれが「第一回浅間高原レース」として知られたレースなのです。第二回のレースは1957年10月に新設の専用コースで行われました。第三回は1959年8月に開催。
いま、世界一と言われる、わが国のモーターサイクルの基礎は、過酷な条件の下で行われた「浅間」で培われ、育ったのです。当時、200に近かったメーカーも現在は4社が残るだけ、という事実からもわかるように「浅間」は、素晴らしいマシンとライダーを育てた原点であり、故郷なのです。
そして、多くのドラマを生んだコースは茫々の中にその歴史を埋没させつつあります。
現在、日本のモーターサイクルが世界を席巻していますが、1950年代のいわば国産車の揺藍期のころの実車がほとんど残っていないことと、世界一の生産国でありながら、そういった物を保存して歴史を伝える試みが成されていない現状を、憂慮しハード面、ソフト面、両方の確立を、地域・モーターサイクル愛好者・メーカー等が協同してこの事業を展開することが必要と考えます。
浅間ミーティングクラブは結成から31年を経過し、毎年加入会員より積立を行い浅間記念館建設資金として1988年に3,000万円を群馬県長野原町に対して目的指定寄付を行いました。翌年1989年5月には浅間記念館(モーターサイクルと関連資料を展示)が町営の施設として開館。現在も開館以来継続して浅間記念館の企画、運営、維持管理作業をしています。また、クラブ設立以来より地域活動とし、大型モーターサイクル、サイドカーによる交通安全パレードへの協力。災害・救援活動として、発電機の寄贈、災害見舞金の拠出、献血活動協力で群馬日赤より銀賞授与など。
これまでのモーターサイクルを通して行っている取り組みをより発展させ、モーターサイクルとライダーに対する社会の理解を深め、浅間記念館維持管理を通じ歴史、文化の継承。地域社会に対する活動を広く一般市民と共に協同事業としておこなうものです。
設立については、まちづくり、学術、文化などの振興をを図るため幅広い領域で活躍するべく、任意団体ではなく法律上の権利義務の主体と認められる人格のある法人格とし、銀行口座の開設、電話回線、公共料金等の法人名義による契約締結が可能になり、責任の有る立場で歴史を伝え、今日を語るために。また地域により貢献するために公益性の高い、開かれた法人格を取得し広く個人、団体に呼びかけるために当法人の設立をめざすこととしました。
以上原文のまま
そしてこの御仁こそ、アサマのレジェンド”宇野順一郎”氏
1958年、浅間高原自動車テストコースで開催された第1回全日本クラブマンレースに、自ら改造したホンダ・ドリームSAで出場
ライトウェイト(250cc以下)クラスで7位を獲得
その後はヤマハワークスライダーとして、国内レースやモトクロスで活躍
晩年はルーツ・ザ・レース(鈴鹿で開催された旧車レース)などのイベントレースに出場
2004年にはマン島TTのラップ・オブ・オナー(パレードラン)にトーハツレーシングマシンで参加の後、デイトナにも遠征

一方、家業である電装部品、特に旧型車の電装部品の修理に関しては関西圏の第一人者として活躍
ポルシェ356乗り仲間の先輩方と一緒にモアナコーストにもお越し頂いたこともあり話が弾みました
そろそろ解散の時間

最後に皆さんと集合写真に納まります

巨大ペナントの左端の黒いキャップを被っているのが私です。
終わり
コメントを残す (0)
雨の中、Triumph T110 を載せてトランポHonda N-VAN は明石海峡大橋を渡ります
目的地は第100回の記念開催となる”アサマミーティング”
北軽井沢までは鳴門からは片道580km

養老SAまでは約270Km、ここで給油
N-VANは燃費は良いのですがいかんせん容量が少なくここ辺りが限界

中央道から長野道を経由して更に北上します

早朝6時前に出発して既に8時間近く
流石に疲れたので遅いランチタイム

初めて立ち寄る梓川SA
迷うことなく信州そばをいただくことに..

ここで”浅間ミーティングクラブ”の歴史をHPから引用いたします

私が初めて参加したのは43年位前の第14回開催前後..
当時は大阪在住で23歳だったかと思います
翌朝、会場でTriumph T110を下します

第100回の記念シールとコンクールデレガンス出場者要の赤いリボン

43年前、23歳の私とKawasaki H2

続く
コメントを残す (0)過日、真夏日が収まらない8月末の鳴門モアナコースト
秘密基地内ではカイゼン作業は続いていました

BSA Rocket Gold Star のガソリンタンクを固定するボルトを英車乗りの匠に製作してもらいました
純正品と寸分たがわずワンオフ製作されたボルト
ところが何度やってもこのボルトのフレーム側の穴位置にボルトの先が入らず固定させることができません
匠は難無く正規の位置にボルトの頭を持ってくることができるのに私では無理

そこで、逆にフレーム側にボルトを立てて、タンク穴からそのボルトを出しナットで固定できるよう素人向けにカイゼンしてもらいました

先ず、正規の方法で固定した場合のボルトの長さを測ります

本来ならこの状態で固定されるボルトの長さがコレ
フレーム側にねじ込む長さを考慮して全長を決めます

仕上がったのがコチラ

フレーム側に固定し、タンクを載せます

併せてタンクの共振止めのスポンジを挟みます

ガソリンタンクをゆっくりと納めるとボルトの頭は確実に出て
難無くナットで簡単に固定させることが出来ました

英車の匠M氏は、やはり匠でした。
コメントを残す (0)
去る9月11日は911の日
日本の各地で記念日RUNをした911フリークは多かったと存じます

斯く言う私も911S/70y/2.2Lで鳴門ニュルを走らせました

鳴門ニュル、長い下りから右ヘアピン外の退避帯

メカニカルポンプ調整後はすこぶる調子良く

7000回転まで一瞬で吹けるようになりました
7300回転でレブリミット機能があるので安心して踏めます

涼しくなったら遠出したいものです。

コメントを残す (0)
二日目も良い天気

夜明け前のレゾネイトクラブくじゅう

この画像はオプションとなっている、朝5時に出発のサンライズツーリング

356クラブ関西の重鎮U氏と写真に納まります

超弩級のクラシックレーシングカー
イタリア車 バンディーニ/シルーロ

レーシーでクラシック然とした、シンプルこの上ない仕様

シルーロ(Siluro)とはイタリア語で魚雷を意味するようです

ドンピシャのタイミングでカノジョと記念ショット

高原の緑とMG MIDGET Mk Ⅲ のボディカラーやメッキ部位が日の出に映えます
ラリーの途中、徳島から参戦の仲間と農園でのお買い物

フィニッシュ直前、過去何度も行ってみようとしてパスしていた久住ワイナリーに立ち寄りました

広大なブドウ畑が広がります

ワインを数本買って直ぐに戻ります
無事にゴールとなるレゾネイトクラブくじゅうに到着

駐車場にはこんな個体 “Porsche 911ダカール”
“992カレラ”の車高を50mm上げ、専用アイテムを盛り込んでオフロードモデルに仕立てたモデル
1984年のパリ・ダカールラリーで優勝した”953″のオマージュとして全世界2500台の限定車

皆さん、帰りの準備で忙しそう..


私たちも佐賀関からフェリーで戻ります

四国に渡っても三崎港から鳴門までは未だ300Kmあります
全走行距離は優に1,400Km余り
今回もOHV1275ccは快調そのもの..
無事に帰宅できたのでした

終わり
コメントを残す (0)