隊列は県境を越え、東洋町に入りました
サーフボードの看板が示すように東洋町生見海岸は”アマチュアサーフィン選手権大会”も開催される
波乗りのメッカとして知られています
同じ四国とは言え、瀬戸内とは全く違う太平洋の大海原を眺めながら進みます
もう直ぐ室戸岬、あの尖った地図が想像できますね
岬からは有名な室戸岬灯台を目指します
室戸岬灯台へは岬の断崖を縫うように道路があり、中腹に在る四国霊場二十四番札所を横目に進みます
ここもWikipediaから引用します
「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。太平洋の白い波涛が吠えたてる室戸岬の突端にある。黒潮のしぶきにあらわれて鋭角になった黒い岩礁。そのすさまじい響き、空と海が一体となり襲いかかる洞窟の樹下で、藤衣を被って風雨を凌ぎ、虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。延暦11年(792)、弘法大師19歳のころとされている。この詳細は、大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。
「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」
大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛した。
当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。往時、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。室戸岬では東西に対峙している二十六番・金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名には東寺と記されている。南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。
しかし、当時のこの場所にどうやって建設、建立されたのか?
相当な苦難が想像されるワケです
そして、思わず声を上げる絶景
いったいこれまで、どれだけの数の航海の手助けとなったのでしょう..
皆で記念写真に納まります
高知市内まであと少し、”道の駅夜須”では美しい夕日が
さらに続く
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